「十字架にかかってくださったキリスト」 06.03.26
ガラテヤ3:1〜14
「十字架のもとぞ、いと安けき」と讃美歌262では歌われます。
イエスさまの十字架の出来事に込められている恵みを
知っている者は、心からそう歌います。 しかし、本来の
十字架は呪いであり、平安とは無縁のものであります。
十字架は、長い時間苦しみを与え続けてから殺すという、
残酷な処刑の道具でありました。それだけでも嫌なものですが、
「木にかけられた者は皆呪われている」(13節)ともあります。
神さまに呪われるという意味で、十字架は真に恐ろしく、
呪いでありました。
十字架にかかられた主イエスは、鞭打たれ、釘を打たれ、
傷つき、血を流しておられます。それもたいへんむごいことです。
しかし、それは神さまの呪いではありません。
主イエスは、十字架の上で「わが神、どうしてわたしを
お見捨てになったのですか」との叫びをされました。
神さまとの関係の断絶を嘆く叫びです。
主イエスは見捨てられました。
そこに十字架にかけられた者の、最大の呪いがありました。
主イエスは、神の御子でありますから、本来は呪われることの
できないお方です。どうやって十字架にかかることが、おできに
なったのでしょうか。それは、すべての人間の罪を抱え、何よりも、
わたしの罪を抱えてくださったからにほかなりません。罪のない
主イエスが十字架にかかり呪われたということは、人の罪と
それによる呪いをしっかり担い、抱え、わたしたちの代わりに
なりきってくださったことのしるしです。
「キリストはわたしたちのために呪いとなって、わたしたちを
律法の呪いから贖い出してくださいました」(13節)と言われます。
主イエスが呪いをすべて抱えて十字架にかかってくださったの
ですから、もう自分が呪われるとか、救ってもらえないとか、
神さまに無視されるなどと思わなくてもよいのです。
主イエスが抱えることのできない罪や呪いはありません。
主イエスは、どんな罪の重荷であっても、しっかり受け止めて
くださいます。 だから、主イエスの十字架のもとには、
呪いでなく、慰めと平安があります。